昭和54年4月16日 朝の御理解50節

                            井出一憲

 一人でに物が出来ると言う事は、只腕こまぬいておればよいと言うようなものではないと思うですね。えー同時に兎角信心は地を肥やせと、言う事がそのままこりゃ金光教の信心の総てと言うても言いでしょう。ね、もう教祖の神様は御神徳を受ける為の教えばっかりです。ですから心が肥える、常日頃からの信心と言うのは只十年間参りよります、もう二十年間参りよりますと言う常日頃の信心と言うのは、そう言う信心じゃ駄目なんです。本当に地が肥えて行く、はあーこれがお徳と言うもんであろうかと、自分で思われるような信心をなさらなければ、何十年信心したって常日頃から、いくらお参りしとってもひとりでにものが出来るようなと、言うおかげにはならないと思うですね。ですから金光様の御信心は確かにひとりでに物が出来るような、おかげの頂けれる常日頃の信心を目指さなければならんと言う事になるんです。もう一辺肥やしときゃそのもうチャント種もまかんでよかとか、肥料ももう与えんでええとか言うじゃない。耕しもせんならん草も取らんならん、

同時に肥料もほどこして行かなきゃならない、それをいよいよ広いものに大きいものにして行く為には、いよいよの精進がいる訳です。合楽理念はそう言う手立てを解くんだと思うですね。ね、お徳の頂かれる信心確かにひとりでに物が出けるような、おかげの頂かれる信心、それを的確に間違いなくこの道を行けばと、指し示すように解かれてあるのが合楽理念だとこう思うんです。ね、4・5日前お祝詞の基礎をする方達が、4・5人集まって下読みをしてくれと言うのでさして頂いた。その中にまあチョット小手をあたくしの思いを加えさせて頂いた所が、ございますがうーんお祝詞の中にお祝詞らしからないその表現が出て来るんです。簡単です明瞭です、ね、おかげが確かです、と、キャッチフレーズにあるようなと言う言葉が、お祝詞の中に出て来るんです。後から若先生が見てから、こう言う事をお祝詞の中に入れていいでしょうかと言うて、そりゃお前神様がわかんなさると言う事はもうわかっちゃるけん、神様よりもやはり後ろで聞いとるものも分からにゃいけんから、

言うなら分かる言うなら祝詞言葉だけではなくても、いいじゃないかねと言うて申しました事でした。確かに合楽では前代未聞の事が言われておりますから、やはりする事も言う事もチョット変わってます、ですからその変わった事が間違いでない証拠に間違いでないおかげが受けられるんです。ね、もうより本当な事が分かったらそれにね、すぐあたしは切り替えて行けれる純粋さと言うものが信心にはいるですね。馬鹿の一つ憶えのようにもうこれが本当だと思い込んだら一生それを思い込んで、そしてようおかげも頂かずにしまえて行くと言う、まあ律儀な人といや律儀な人かも知れませんけど、そう言う事じゃないようです、うんそれでは一人でにものが出けるようなおかげになってこない、あたしは昨日一日休ませて頂いてえー風邪をひかせて貰ったから、休んでおる間に何回も何回も頂いた事は和楽の道と言う事、和楽、道と言うのはこのえーなんて言うんでしょうかね、木曽路と言うあのこの道なんです、ね、ですからそれを和楽路と読むんです、和楽の道、ね、金光教の信心は和楽の道です、

ね、和らいで心がいつも楽である、心がいつも安らいでおる、ね、そう言う精進がいるんですそう言う道なんです。あー金光教の信心は楽だなと、それこそ簡単です明瞭ですと言うのはね、もう兎に角ね、和賀心になりさえすればよいとじゃから、こげな簡単な事はなか、それをほんなら頂く為にはもう土の信心に極まった、もう成り行きを大切にする成り行きを尊ぶ以外にはないんだと、成り行きそのものはもう誰がどう言うても、これは天地金乃神様が人間氏子一人一人に求められる修行なんだ、修行と言うたらこの修行は最高なんだ、ね、様々な修行があるけど神様が求めなさる修行をさして貰う、しかもそれを泥の心で黙って受けて行こうと言う、ね、こんなに簡単な事じゃない、しかも明瞭ですともう明瞭と言う事になりますとです、あたくしが三十年間言うなら解いて来た事を言わば語らなければ、語るなければまだそれでも尽きぬ程に明瞭に解いてあるんです。ね、詳しく分かろうと思えば、ね、けれどもまあ言うならば、ね、ドロの信心に極まった、ね、成り行きを尊ばして貰う、

成り行きを大切にさして貰うと言う事が、ね、そのまま神様の願いに応える事でもあるんだ、神様が求めたもうものに対して、それにお答えするのが成り行きを尊ぶ事なんだ大切にする事なんだ。昨日一昨日学院生が皆なおかげを頂いて、えー七名ですか卒業させて頂いていつも大祭の晩に帰って来るんですけども、中に日曜が入りましたから一日早く帰らせて頂いたと言う訳なんです。中で高松和子先生がお届けしておりましたが、帰るにさいして金光様にお礼を申しあげて、金光様どうぞ今後とも、ね、神様の願いがわたくしの上にかけられておる願いが、どうぞ御成就に相なりますようによろしくお願い申しあげますと言うて、お届けさして頂いたらそれこそビックリするようなお声で、「そうじゃ」と仰ったそうです、ね、あれが神様がお聞きになった時にゃカチッとおいさみがあるようなもんじゃないでしょうか。ね、もう思わずビックリするように金光様がね、「そうじゃ」と仰った、一人一人に天地金乃神様の願いと言うものは、お道の教師だけじゃない誰でもかけられておる、

ね、そのそれをなら結論すると言うが、応えを出すと言うと、氏子信心しておかげを受けてくれよと言う事なんです。ね、おかげを受けてくれよその為にはです、ね、神の願いを聞いてくれと言ったようなものではなくてです、ね、神の願いを願いとしてあたくし共が悟らして貰い神様があたしに求めたもう修行であるならば、ね、それこそ黙って受けます合掌して受けますと言うものじゃなからないけんのです。ね、問題も難儀も一切があなたに神様が求め給う修行であると同時に、ね、その修行のあかつきにです、ね、氏子信心しておかげを受けてくれと言うおかげが受けられる。そのおかげをあたくしはひとりでにものが出来るようなものじゃと言う事になるのじゃないでしょうか、ひとりでにものが出来るて言うて、ね、それはうなら只もうどうもせんよか、いつもお風呂に入っとる事あると言うようなもんじゃない、ね、所謂和楽路の道なんだ、ね、和楽の道と言う事は和楽路と言う事、

わらじと言う事は、まあ気を入れて言うならわらじばきの信心と言ったような事が言われますよね。ね、いつもね填まっておくと言う事なんです。わらじばきと言うと何かこういつもギリギリの信心しとかなならんと、言ったような感じがするけどもそうじゃない、所謂和楽なんだ、ね、言うならば心行であり家業の行なんだ、ね、朝の清々しさ昼の忙しさ、ね、それが皆な修行なんだ、ね、商売人であるなら損したとか儲かったと言う事じゃない、その事が修行です、ですから今日も結構なお使い回しを頂いて有難いと言う事になるんです。ジッートしとる事だけじゃない和楽路履きと言うのはそう言う、ね、和楽路の言うなら和楽の路と言うのは、ね、教祖様はそれを一生が修行じゃとこう仰った、教祖様が仰っる一生が修行じゃと言うのは苦しいと言うのじゃない、それこそ学者がメガネをかけて本を読むようなものであろうぞいと仰せられるように、学徳が身について行く事が楽しいんだ、

本を見るなと言われても見らずにおられんのが、学徳を受けて行く人達の言うなら勉強の姿勢であろうとこう思う。信心もそれなんです、ね、それこそ身に徳がついて行く事が楽しゅうしてたまらん、一反よりも2反2反よりも3反と心が広うなって行く、去年は20俵しか取れなかったが今年は30俵取れるおかげを頂いて行く、ね、金光様の御信心はね、だから一生が修行なんです。だから一生が修行と言うと大変こう厳しいようでありますけど、それが信心生活信心の中に生活が入って来る、だから信心そのものが生活なんだ、はあー今日いそがしかばってんお参りせんなならんと言ったようなこっちゃない、信心がまず先なんだ、忙しいそげな事もう問題じゃない、そう言う信心をあたくしはさせて頂いて始めて独りでに物が出けるような、ね、もうどの教えをヒモ解いても結論すると、ね、あたくし共が信心しておかげを受けてくれると言う神様の願いが、どうぞお徳を受けてくれよと独りでに物が出切るような、

おかげを受けてくれよと言う、願いの現われておる御教えばっかりです。ね、ですから教祖様の教えておられる天地金乃神様から、ご依頼を受けられての金光教の道が立ったんですけれども、ね、その道と言うのはもうそれこそ前代未聞です。言うならば宗教以前の宗教です、もうね今あたくしが合楽で言っておる事、皆さんが行じられたらです、他の宗教の総てがねもう価値観を無くしてしまうです。と言う程しの教えなんです。ね、それを神様がある時十全の教えとわたくしは頂いた。ね、とんをの全全くと言う字、和道十全の教えなんです金光教は、けどもそれを頂いて顕わさなかったら、何んの様も対して変わらないです、ね、本当にその和道十全なる程一人でに物が出来るような、おかげを頂いて始めて教祖様の教えられた事が、どんなに素晴らしいものであるかと言う事が分かるんです。ひとつ草鞋履きの信心をさして貰いましょう、和楽路履きと言う事はもう、ね、何て言うんでしょうか心にね、

こうと決めた事を貫くと言う事なんです。ね、しだごだにしないと言う事、それが実意丁寧です、ね、しかもその貫くと言う事が、ね、場合には苦しい事もありましょう、ね、痛い思いをする事もありましょうけれども、それを頂き貫き通した向こうに必ず喜びがあるんだ、ね、おかげが待っとるですから楽しいんです。草鞋履きの信心それを、ね、和楽の道金光教の信心は和楽の道、そう言う信心を体得して分からして頂いてこの御理解50節を頂きますとです、素晴らしい御教えだなと言う事が分かります。常平静の信心只もう何十年参っとりますと言うのじゃつまらん、その証拠に独りでに物が出来よらんもん、ね、けれどもあたくしがここで皆さんに頂いておる合楽理念を、ね、行じてそれを、ね、それこそ楽しゅう、ね、有難う、ね、それこそリズムに乗っての生き方を身につけさせて頂いて、ね、そう言う信心を常日頃させて頂いておるから、独りでに物が出けるようなおかげ言うならば、お徳が受けられると言う事になるのです。ね、皆さんがあたしが言っておる事の一人一人がその実証者になって頂かないかんです。

ね、どんなに素晴らしい事を例えばほならあたくしが、それこそあー色々反発がありますよね、あたくしが言うておる事には、ね、宗教以前の宗教もう前代未聞の、もう本当に合楽の信心を頂いて独りでに物が出けるようなおかげを頂いたら、ね、もうあらゆる宗教がです、ね、もう価値観を無くしてしまう程しのものです。ね、だからこう言うほならまあ言うならいさぎよいよさを、私が言うておる訳なんですけれども、ね、皆さんの一人一人が先生が言われる通りだと言う、おかげの実証者になって下さらなければ、ね、えーまあ親先生だけの独壇場のようなものになってしまいます。独壇場のものじゃない専売特許じゃない、皆な一人一人がそう言うおかげを頂けれる道を、しかも言うならば見やすう、ね、日々解かれてあるのが合楽理念だと思います。今度のお祝詞の中に関係教会のうーんお教会で、ね、えー合楽理念の実証教会としての実を、が上がって参りますようにと言う所があるんです。

沢山ございますよ、今この頃あの中近畿の講演依頼もう全国から、ここに関係を求めて見える先生方が出けて来たんです。ね、だからそう言う信心になる程と合点したり、帰依して下さった方達のお教会でそう言うご比礼が輝かねばいけんです。先日のうーん日向教会の竹内先生からあのお手紙頂いてましたがね、えーもう最近もう続々としてそのご信者が、あのご参拝があると行ったような言葉で表現してございました。もうくのいち修行に極まった、言うなら修行の第一くのいち修行と言うのは、くの第一修行の第一、その第一の修行を成り行きを尊び成り行きを大事にする。ね、もうそれこそおかげを頂いて教会がいよいよ活気づいて来る、いよいよそう言うおかげを皆さんの、ね、一人一人の上にも教会の上にも頂いて下さって、合楽理念を実証して下さると言う事が、あたくしは神様へ対するお礼と言う事にもなり、神様に喜んで頂くと言う事にもなるんだと、何十年信心しておっても、

一人でに物が出きるようなおかげにならないとするなら、ね、言うならば何と申しましょうか、ね、えーあんまり効果のない修行ばっかりをしておると言う事になるのです。合楽ではねもう絶対もう一言一言が間違いなしに神様が受けて下さる。と言う修行を皆さんに聞いて頂くのです。ね、ですから間違いなく言うなら手応えがある筈です。ね、その手応えが楽しいものにも有難いものにもなって来る、自他楽えー草鞋の道、又は一人でに物が出けると言うそれはね、只ジットしとれば良いと言う事では決してないと言う事、常日頃からの信心と言うても、参りました拝みましたこげな修行もしましたと言うのじゃない、もう合楽理念を芯にしての信心の稽古であり、修行でなからなきゃならんと言う事でございます。どうぞ。